起業後の本当の体験談
あなたがこれから進む道
独立とは何か。
起業とは何か。
経営とは何か。
社長とは何か。
何がこれから起こるのか。
これから進む道は決して単調なものではなく、人間力が重視され、より複雑な駆け引きをすることとなり、より孤独を味わう「暗中の一本道」。その道を歩いた男が体験談として"起業後に何が起こったのか"を嘘偽りなくお伝えする。
夜明け前
2010年、米国での労働ビザ申請が却下され、2度目の「ビザキャンセル」のスタンプをもらうと同時に米国で働くという夢はここで完全に断たれた。2001年の同時多発テロ以降、労働ビザの取得は厳しさを増しており、弁護士をつけての申請もあえなく砕け散った。2回目の却下により事実上の米国移民局のブラックリスト入りとなり、可能性は消滅した。
当時24歳。リスクが高い博打のような申請に自分の人生を賭け、そして全てを無くした。仕事はもちろん、住居、車、それまで積み上げてきたコネクション。その全てを手放し日本へ強制的に戻ることとなった。
悲しみ、絶望、不安が自身を覆っていたが、野心の牙はより鋭さを増していた。
誰かに飼われるのは嫌だ。自分の人生は自分の足で歩く。次の人生は、自分の技術である「ウェブサイト作り」にしよう。これが俺の人生の第2章だ。
あの時、自分はこう考えていた。
今にして思えば恐怖からの狂乱状態であった。
そのようにして、日本で就職はせずに「起業」を選んだ。自分の拙い技術と想いだけを持って。
夜明けは分け隔てなく万人に訪れる。
夜明け
起業における「夜明け」はあっけない。
指定された書類を作成し提出するだけだ。かくして、自身初の会社がこの世に産声をあげた。
今思えば、起業したばかりの時ほど体の中にエネルギーが満ち溢れた瞬間はないかもしれない。これは決してポジティブな意味だけではない。一種の興奮状態であったのだ。
指針もない、師と呼べる人もいない、肩を並べる仲間もいない、場所もない。しかし、夜明けを告げる太陽が如くに前方は明るく照らされていた。怖いものなど何もない。ただ進めばいい、力一杯進めばいい。
周りを見よ、誰しもが応援してくれている。
この道に祝福をしてくれているのだ。
今この時にタイムスリップして戻るかと聞かれたら「NO」と答える。今だからこそわかる、全ては夢幻であり、それに酔うことで恐怖をかき消していただけなのだ。
恐慌状態というのはこのことを指すのだろう。まさに絶叫である。
この夜明けの甘美を味わった者は、その代償を永遠に支払い続けることになる。
朝日
起業という夜明けを経て、朝日が昇った時には挑戦の限りを尽くした。
慣れない日本社会で経験もないまま飛び込み営業をしたり、知り合いを経由して人を紹介してもらったりと、立ち止まりたくなくて我武者羅に動き続けた。
最初のうちにベンチャー企業の方と結びつき仕事を回してもらえたのは運が良かった。同時に、これをきっかけとして日本でのビジネスマナーとお膳立ての重要性を痛いほど学ぶことができた。
ただし、案件の報酬は全く公平ではなかった。経験不足も加わり、いつも作業に追われていたにも関わらず、資金が底を尽き始めていた。
案件は受注するが、いくらやっても追いつかない。しかし、他に選択肢はなくやるしかない日々。
普通に就職している方であれば転職という道もあるが、最早自分にその道は選べなかった。自分の肩書きや自分の理念、自分の想いを道半ばで手放すことはもうできなかった。
日照り
豊穣の大地を築くには日照りがいるが、日照りが続き過ぎるとそれは枯渇を意味する。
仕事はくるが薄い利益しか得れず、完全に資金は枯渇していた。在庫を持たない仕事だったことと、実家に住んで親の加護に甘んじていたおかげで生活こそできていたが、心はそうはいかない。
先通しのない未来は不安を作り、横目を見れば同年代の子達は人生を謳歌している。SNSは最盛期を迎えており、その当時の自分には閲覧するのが心苦しかった。
友人たちは仕事に慣れていき、休日は仲間と大いに楽しむ。長期休暇には海外へ旅行に行ったり、時には結婚というフェーズに入っていたりした。
かたや自分は、1万円が欲しくて翻弄していた。今日のご飯を食べる500円が欲しかった。入ったお金は細かく使い、どうにか生活をしたが貧しかった。
それでも、日照りは容赦なく続く。
干ばつ
ここにきて一度仕事が途絶える。
理由は簡単である。自身が追いつかずクオリティを担保できなくなったからだ。
近しき者からは「会社を畳んで就職活動をすべき」と諭され、言い返す言葉も気力もなかった。
寝る前に将来の不安で心が凍る。
お金がなく腹を空かし、電車にも乗れず2駅も3駅も歩く辛さ。
何よりに何も得ていない自分への情けなさ。
いささか解放されたかった。
それでも、そうだとしても、道半ばで辞める訳にはいかなかった。
ここで辞めたら、もう二度と自分を信じることができないとわかっていた。
小雨
日銭を稼ぐ日々だったが、この事業だけでなんとか食い繫いだ。
いつまでも抜け出せぬ煉獄のような時間が過ぎ、それに慣れてしまっている自分がいた。
そんな最中である。
当時の自分にとっては、一件の大型の案件が舞い込んできた。誰しもが知る銀行のホームページのリニューアル案件だ。
今の自分にこれをこなせるのか、いや、こなさなければもう次はない。全身全霊を賭けてこれに向き合わなければいけない。
継続をし続けされすれば、チャンスは訪れるもの。重要なのは、その数少ないチャンスを見過ごさないこと。
これが、自分にとっての大きな分岐点だった。
嵐
その案件は熾烈を極めた。
もう辞めようと思った。
今振り返ればよく引き受ける規模の案件であったが、当時の自分にはキャパシティを超えていた。仕事において初めて感じる辛さ、苦しさ。泣きたくなるし、逃げ出したくなる。前も後ろも、右も左も、全てがわからなくなっていくほどの感覚。
どうして自分はこんな目にあっているのかと思ったが、その最中で「なぜこの苦しみから逃げないのか」「なぜ自分が起業をしたのか」「どういう会社にしたいのか」と自身に問いかけた。過酷な状況だからこそ、自身の起業について初めて向き合ったのだ。
そうだ、
ゼロからでも頑張れるチャンスを与える会社。
人生設計がきちんとできる会社。
お客様の想いを具現化できる会社。
こんな当たり前の会社を作りたいんだ。
二度と、僕みたいな人を作らないために。
これが僕の使命なのだ。
そこから、意識が変わった。
雨止み
人生初の大型案件は無事に納品を迎えた。
そこから先は歯車が回り始めた。
その実績を買われ、連鎖的に仕事が舞い込んでくるようになったのだ。仕事が実績を作り、経験が増え、新たな仕事を呼び寄せた。
雨が、嵐が、今日の土壌を作ってくれたのだ。
このあたりから、ともに働く仲間も次第に増えていき、やっと「経営」の本質にほんの少し触れ始めた。
この時点で29歳。
起業してから5年という歳月を経ていた。
心とは何か、
人とは何か、
弱さとは何か、
起業とは何か、
経営とは何か、
会社とは何か。
知識も経験も無い自分には、これを学ぶのに時間がかかった。
日本晴れ
今も決して順風満帆ではない。
会社はどんどん新しいフェーズに突入し、その時折で判断を求められる。
時には同業者から忌み嫌われることもあり、また時には自身の力の無さを痛感することもある。
その一方で、お客様の想いを詰め込んだ事業が発展して喜んでもらえると嬉しくなるし、やっててよかったと心底思える。
ともに働く仲間と苦楽を共有する喜びや、目的を持って進む充実感は何にも代えがたい。
自分は、この会社が好きだと胸を張って言える。
夜明けとともに昇った太陽は、進むべき道を明るく照らしてる。
心はまさに、日本晴れである。
2018.07.25
あとがき
書き綴るにつれて、あの当時の辛さや孤独を思い出しました。この体験談を通じて、夜明け前の皆様に伝えたいのは、「継続し続ける」ということです。
必ず苦しい時期がきますし、逃げ出したくなる時もあります。とんでもなく大きなリスクを背負うことになるかもしれません。はたまた、買収されそうになることだってあります。
仮にそういう状況になったとしても、継続できる方は経営者の素質を持ってると僕は思います。
経営者に下積みはありません。誰でも法務局に申請さえしてしまえば経営者なのです。だからこそ、経営者としての真価はその継続性に問われます。
素晴らしい夜明けがありますように。
素晴らしい旅路になりますように。